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    Le > お久しぶりです。どこにも以下変で。
    >
    > 大江健三郎の『水死』という小説を読みました。
    > いつもの大江のやり方で、自身の実生活とフィクションを混ぜ合わせ、拗り合わせ、ひどく晦渋、読みこなすのにひどく難渋する小説でした。
    > 実はこれを読もうと思ったのは、私が私淑しているある方のブログでの紹介があったからなのですが、その方には自閉症の障碍を持つ息子さんがいらして、大江健三郎にも周知の通りいつも小説にも登場する障碍者の息子さんがおり、私にも障碍者となった娘がいるという偶然の重なりもありました。
    >
    > この『水死』という小説、主人公の小説家が、水死した父親をモチーフに『水死』という小説を書き始めるのですが、資料を集める過程で挫折するという内容で、それだけでいかに凝った複雑な内容のものであるかが分かるというものです。
    > ほとんどの文章が対話体になっているといってよく、しかもそれらの対話に二重、三重に第三者や第四者の言葉が引用されているのです。したがって一つの文章の中に必ず複数の主語と述語があり、まずその関係を読み解かなければならず、というより、そもそもこの話者は対話しているふたりのうちのどちらなのかを特定する作業から始めなければならないのでした。
    > 実は私、小説というものを読んだのは20年ぶりぐらい、フィクション物は『チャングム』と、決して多くはない映画を除けば、同じく20年ほど接していなかったのです。
    > でも『水死』をきっかけとして、評判の『ゼロ・グラビティ』と『スノーピアサー』という映画を2本立て続けに観たのですが、どちらも私には全く面白くありませんでした。ただ、WOWOWだったかで、声の出ない少年を主人公にした『蜂蜜』というトルコ映画を観てとても感動しました。父と子の囁きによる心にしみ入る対話、ワンカット・ワンシーンの多用による静謐な映像、どこかタルコフスキーの再来を思わせるほどでした。
    > この『水死』と『蜂蜜』によって、あらためて良質なフィクションというものがいかに人間にある種の活力をもたらすものであるかということを再認識した次第です。
    > その結果がこの随分と久しぶりな投稿に結実したということなのでした。
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