カン氏夫人

高麗最高の権力を務めた{カン}氏家門の娘で乱世の英雄であるイ・ソンゲの夫人で後に神德王后{シンドクワンフ}となる。

象山府院君{サンサンブウォングン}康允成{カン・ユンソン}の娘で、1356年に生まれ李成桂{イ・ソンゲ}の第二夫人となった。谷山(または信川)康氏は高麗時代の時の権門勢族{クォンムンセジョク}だった。李成桂は1361年紅巾賊を討伐以降多くの功を立てたが、地方の土豪出身に限界を感じ、高麗の首都開城{ケソン}の権門勢族の背景が必要だった李成桂は康氏の一族の勢力伸長に役立つ人物と目をつけた康允成によって康氏と政略的な婚姻をした。

李成桂が王に即位すると顯妃に冊封されて王后になった。李成桂との間に芳蕃{パンボン}芳碩{パンソク}の二王子と慶順公主{キョンスンコンジュ}を生んだ。自分の家の背景をもとに大胆な知略を構想し、李成桂を危険から救い、朝鮮国の多大な貢献をして開国功臣となった。自分の息子である芳碩が皇太子に冊封されるように努め、これに関連して先妻{ハン}氏の五男李芳遠{イ・バンウォン}と葛藤が深まった。鄭道傳{チョン・ドジョン}と力を合わせて次男芳碩を王世子{セジャ}に冊封したが、1396年8月13日芳遠が起こした騒ぎが禍根となって鬱火病*1で死亡した。1398年王位を狙う芳遠が起こした"第1次王子の乱"で実子である二人の息子芳蕃、芳碩(王世子)と婿、反対派鄭道傳などが殺害された。

最初は都城中の皇華坊北苑(現英国大使館)に埋葬されたが、太祖李成桂が死亡した後、翌年の1409年2月康氏の墓を都城外の楊州沙乙閑麓に改葬した。李成桂は康氏の死亡後失望に陥って直接貞陵{チョンヌン}の隣に小さな庵を建て行幸を朝夕に捧げ、1397年に1年余りの工事の末、170余館の興天寺{フンチョンサ}を建てたという。

しかし、芳遠(朝鮮太宗)が王位に上がると後宮の地位に格下げさせて廟を改葬した。1669年(顯宗10年)に王妃に復位されて順元顯敬{スンワンヒョンギョン}の徽号を追上された。(1356~1396年)

出演者
ユン・ジュヒ