恭愍王

高麗第31代王。

第27代王忠肅{チュンスク}王の次男として10年間元国の人質だったが1351年に王位に上がる。1356年元国が衰退すると高麗の自主独立のために努力する。

即位初期は元国の服飾と頭髪をして元国の犬、権門勢族{クォンムンセジョク}*1の置物になりすまして力を積んだ後、紫微垣局{チャミウォングク}*2を見つけたと信じた瞬間素早く隠密に元国からの自主独立を宣言して権門勢族を処断する。しかし彼が手に入れた紫微垣局は偽物であり、その後権門勢族の妨害と頻繁な外勢の侵入に改革は失敗する。

忠肅王の次男。妃は元国魏王の娘魯國大長公主{ノグクデジャンゴンジュ}であり、その他に恵妃李氏{ヘビイシ}益妃韓氏{イクビハンシ}定妃安氏{チョンビアンシ}慎妃廉氏{シンビヨムシ}がいた。かつて江陵大君{カンヌンテグン}に封され、1341年元国に行って宿衛した。1349年元国で魯國大長公主を妃に迎え、1351年当時幼い忠定{チュンジョン}王が母方の親戚の専横で国政を風紀を乱したという理由で元国によって廃位されて帰国して王位に上がった。王位に上がるとすぐに人事行政に弊害が多かった政房{チョンバン}*3を廃止して、田民弁整都監{チョンミンビョンジョンドガム}*4を設置して貴族が奪った土地を元の住人に戻して、不法に奴婢になった人を解放させた。合わせて王自身からモンゴル式の弁髪・胡服を解いた。1356年に達して本格的な改革政治を断行したが、対外的には反元政策、対内的には王権の強化と社会経済的矛盾の清算を主要内容とした。これは元明交替という当時の大陸情勢と密接な関連を有していた。恭愍王は先に元国皇室との親戚関係を通じて権力を働かせた奇轍{キチョル}一派を粛清する一方、モンゴルの年号・管制を廃止して文宗{ムンジョン}時の制度を復旧した。また、内政を干渉した元国の征東行中書省理問所{チョンドンヘンジュンソソニムンソ}*5を廃止して、100年の間存続してきた双城摠管府{サンソンチョンガンブ}*6を廃止、元国に奪われた領土を回復した。

しかし紅巾賊と倭寇の頻繁な侵入、1363年興王寺{フワンサ}の変(金鏞{キム・ヨン}の反乱)、1364年忠宣{チュンソン}王の三番目の息子であり忠肅王の弟德興君{トクフングン}を王にたてようとする元国の企画などを体験しながら一時改革政治をあきらめなければならなかった。そうするうちに1365年僧侶辛旽{シンドン}を登用して再び改革を推進したが、辛旽は崔瑩{チェ・ヨン}など武装勢力をはじめとする権門勢族を退けて恭愍王の強力な支持の下で積極的な改革を行った。この時期の政治的変革では内宰枢制の新設を上げられる。これは選抜された一部の宰臣と枢密が宮中で国家の大変なことを処理する変則的な制度として、権門勢族が中心となった都評議使司{トピョニササ}*7を弱化させて王権の強化を試みた機構であった。1366年に再び田民弁整都監を設置して成果を上げ、1367年には国学である成均館{ソンギュンガン}*8を重営した。1368年明国が建国するとすぐに明国と協力して遼東に残っている元国勢力を攻略し、2年後には李成桂{イ・ソンゲ}東寧府{トンニョンブ}*9を打つようにして五老山{オロサン}城を占領した。このような軍事力動員を通じて武装勢力が再び強化されて、1370年権門勢族の執拗な攻撃で辛旽が押し出されながら改革運動は失敗に終わることになった。しかし辛旽没落以後政界には権門勢族の復帰とともに新進士類も浮上しているということが注目される。新進士類はその間の改革政策を通じて着実に成長してきて、この時鄭夢周{チョン・モンジュ}鄭道傳{チョン・ドジョン}が権門勢族より下位職ではあるが国事を相談できる相手に位置していった。

辛旽失脚後1372年身辺護衛兼指導者養成のために功臣および高位官職者の子弟を選抜して子弟衛{チャジェウィ}*10を設置したが、1374年9月に反対勢力の指図を受けた子弟衛所属の崔萬生{チョ・マンセン}洪倫{ホン・リュン}によって殺された。恭愍王の改革政治は高麗の長い間の弊害をなくして国を正してみようとする最後の試みであり、その過程で次に時代を導いていく新進士類が大きく成長できたという点で大きい意義を持つ。(1330~1374年、在位:1351~1374年)

出演者
リュ・テジュン