シンドン

高麗末期の僧侶であり、僧名は遍照{ピョンジョ}桂城県{ケソンヒョン}玉川寺{オクチョンサ}の奴婢の息子。

身分制度が厳しかった高麗時代に最も卑しい身分に生まれたが恭愍{コンミン}に国政を一任される。

姓は辛、字は耀空{ヨゴン}、法名は遍照。名前旽は執権後で定めた俗名であり、法号は清閑居士{チョハンゴサ}。本来賎民出身だったが仏教信者の間に非凡な面があると知られ、金元命{キム・ウォンミョン}の推薦で恭愍王に紹介された。恭愍王と何回も会っていつも政事に関し対話をし恭愍王は辛旽を聡明な人と判断した。1365年恭愍王の信任を受けて清閑居士という号を下賜受け師傅{サブ}*1として国政に参加することになった。彼はその功で眞平侯{チンピョンフ}という称号を受けた。

当時高麗末社会は旧貴族、権門勢族{クォンムンセジョク}*2の派閥勢力をはじめとして色々な社会制度が非常に歪曲されていた。権門勢族の専横が深刻で王権が萎縮する状況に達した。恭愍王はちょうど元国の勢力が弱まっていく隙間を利用して改革政治を推進した。外では元国の支配、干渉から抜け出そうとし、中では元国勢力の力を背に負って派閥勢力を働かせる権門勢族を清算しようとした。この時、王の信任を受けていた辛旽を重用して国内改革を推進するようにした。

辛旽は恭愍王の許諾を受けて一番最初に施行したことは政界再編作業だった。まず既得権勢力を追い出して李齊賢{イ・ジェヒョン}など新しい新進官吏を登用した。その次に1366年(恭愍王15年)高麗の土地と民を正しく改革する官庁である"田民弁整都監{チョンミンビョンジョンドガム}"*3を設置して改革を推進した。権力者が不当に所有していた土地を元の所有者や農民にかえして、悔しく権力者の奴婢になった人々を希望により自由化させるなど改革政治をした。1367年成均館{ソンギュンガン}*4を建立したがこれを基盤に李穡{イ・セク}鄭夢周{チョン・モンジュ}鄭道傳{チョン・ドジョン}などの改革的指向の新進官吏が自身の政治的理念を実践することができ、辛旽は仏教信者ながらも性理学と儒教を崇拝していた。

このような改革は主に権門勢族を標的にした。結果的に彼らの力を弱化させることによって王権を強化回復するのに焦点が合わせられた。これはすなわち国家の基本規律を正す重要なことだった。歪曲された社会制度の改革は穏当なことだったが、その清算対象になった権門勢族には非難と排斥の対象になり、彼らは次第に辛旽を排除せずには生存できない境遇に追い出されることになった。

そして辛旽は権門勢族の強力な抵抗を受けることになった。1366年には鄭樞{チョン・チュ}李存吾{イ・チョノ}が彼を批判し1367年には彼を排除しようとする謀議もあった。1368年にも金精{キム・ジョン}金興祖{キム・フンジョ}・|金齊顔《キム・ジェアン》などが彼を排除しようとしたが発覚して流刑にされて辛旽によって殺害された。

だが権力の核心に浮上した辛旽は支持基盤がなく、また彼にへつらう者がいつも周辺にありながら辛旽は自己管理に疎かになった。お金と女に関連した醜聞が続き既得権勢力に口実を提供することになった。このような反対勢力の抵抗と共に国内外情勢も辛旽に不利になり、恭愍王も辛旽を疑い始めた。1369年五道都事審官{オドドサシムクァン}*5になろうとしたが恭愍王が拒否し、改革政治を推進したにもかかわらず民生問題は良くならなかった。新しく登場した明では辛旽の執権を批判した。結局恭愍王は1370年親政の意向を明らかにして辛旽執権時代は終わることになった。

しばらくして李仁任{イ・イニム}が辛旽が謀逆を企んでいるという投書を宰相だった金續命{キム・ソクミョン}に送り、これを報告するとすぐに恭愍王は辛旽と関連者を捕らえて、この事件で水原{スウォン}に幽閉されて1371年(恭愍王20年)に処刑された。(?~1371年)

出演者
ユ・ハジュン