朝鮮が建国された際、イ・バンウォンが杜門洞*1に火をつけたことに怒って抗議する。(1363~1452年)
1363年資憲大夫・判江陵大都護府使黄君瑞の息子で開城で生まれた。1376年(禑王2年)蔭職*2で福安宮録事となったが、1383年進士試に合格、1389年(昌王1年)文科に合格、翌年成均館*3学官となった。高麗が亡びると杜門洞に隠居したが、太祖・李成桂の要請で1394年(太祖3年)成均館学官を務めることになり世子右正字も兼任した。その後直芸文春秋館・司憲監察・右拾遺・京畿道都使を務めた。
1400年(定宗2年)以後、刑曹・礼曹・吏曹・兵曹などの正郎を務めた。1402年父親の喪でしばらく辞職した。1404年(太宗4年)右司諌大夫になって翌年承政院で王名を出納する知申事に上がった。1408年閔無恤などの横暴を排除した。1409年以後刑曹・大司憲、兵曹(1411年)、礼曹判書(1413年)、吏曹判書(1415年)を歴任した。訟事問題で罷職され、再び戸曹判書に復帰し、1416年には世子讓寧大君の失行を擁護して罷職され、再び工曹判書に専任復帰した。引き続き平壌判尹を経て、1418年漢城府判事になった。
1418年には讓寧大君の世子廃黜(忠寧大君世子冊封)に極力反対して太宗の怒りを買って交河に流刑されたがしばらくして故郷に近い南原に移配された。1422年(世宗4年)上王(太宗)の怒りが解けて議政府左参賛に起用され、翌年礼曹判書を経て江原道観察使に出て救恤をよくした。1426年吏曹判書・右議政を経て1427年左議政に上がった。その年の挨拶をしていないと罪のない人を殴って殺した婿'徐達'を放免して罷免されたが1ヶ月後に復帰した。1428年には朴苞の妻と姦通した疑いを受け*4、1430年馬1000匹を死なせて投獄された済州監牧観太石鈞の減刑を私的に司憲府に願い出たことで弾劾を受け罷職されたが、翌年復職されて領議政府事*5になった。
1449年(世宗31年)官職から退くまで18年間、国政を管理した。彼の業績は様々である。農業の改良、礼法の改正、賎妾が産んだ子の賤役免除、国防強化(野人*6と倭の防御策)、四軍六鎮開拓、文物制度の整備・振興などの業績を残した。また、国の法律を混乱から修正・補完して、《経済六典》を刊行した。太宗はもちろん、世宗の最も信頼される宰相としての名声が高かった。また人柄が円満で清廉で国民らから尊敬を受けた。
詩文にも優れ、数々の時調*7作品も伝えられている。1452年(文宗2年)に世宗廟に配享*8された。坡州の厖村影堂に遺影が奉安されており、尚州の玉洞書院、長水の滄溪書院などに祭祀された。著書に《厖村集》がある。
- 出演者
- クォン・シヒョン
- 吹替版の声
- -
https://daejanggeum.xii.jp/yukryong_cast/hwang_huiファン・ヒ/黄喜-続★同好大長今